Kategorie: Blog Japanisch

  • コロナウィルス 5:国民国家の世界における対立に、国家、その国民、そしてその国の経済はどう備えているのか

    ウィルスとの闘いにおいて、その闘いに臨んでいる国家が、ウィルスとは全く無関係であるが重要な国家の問題として捉えている人々が存在する。その人々が健康か否か、そんなことは全くどうでも良く、重要なのは人々の国籍である。ふさわしくない国籍の人々は入国を禁じられ、他国に滞在している人々は国籍のある国に即座に戻ることが「強く推奨」されている。ここでも、この決定に異議を唱える個人的な理由は、それが休暇であろうが何であろうが存在しない。この場合の例外も仕事、つまり経済に関連する義務的な行為である。そうでなければ、母国に戻らなければならないのだ。そして、これは単にひとつの国が行っていることではなく、様々な形ではあるが、すべての国がその国民に対して行っていることである。もしも、国家が彼らの健康の面倒を見られるように海外にいる国民は母国に帰らなければならないと帰国者が考えているとするならば、国家の大臣たちはその誤った解釈をも喜んで受け入れるだろう。帰国者が考えていることは誤りであるし、すでに彼らは、このことが健康とは無関係であることに気づいているかもしれない。なぜなら、そうでなければ、病気ではなく不適格な国籍を理由に、国家が他国民の入国を禁じることはないからだ。不適格な国籍を持つ者はこの国に属していない。だから自らが属す場所にいなさい。遅くとも自国に到着した時に、彼らが感染して帰ってきたことにより自国の医療システムが崩壊してはいけないと伝えられたことをメディアを通じて知ることになる。つまり、感染した者は目の前にいる他者を混乱させる存在なのだ。そうして、なぜすべての不適格な国籍の人間が入国を禁じられているのかという疑問に答えることによって、これまでいた場所に滞在していてはいけない理由が、明らかになる。もし、これがウィルスを持ち込むことに関することだと思っているのなら、それは間違いである。もしそうであれば、世界各地から帰国するように命じられたすべての自国民は、入国前に検査を受け陰性であると分かった場合のみ、入国を許可されるはずである。しかし、実際に起こっていることはそうではない。そして、他国民を出国させないことはさらに病気とは無関係であり、(出国させれば)潜在的に存在する感染者を国内から減らすことができる(にもかかわらず出国も許さない。) この出入国に関する政策全体で重要なことは、英国籍の者は英国へ、日本国籍の者は日本へ、など、要するに国籍だけである。国籍に応じて、これからは全員が自身の属する国に留まるのだ。病気であろうがなかろうが、その他の事は関係ない。重要なことは、国籍でそれぞれの国民が、国籍に応じて本来所属する場所へ戻されることである。これが唯一大事なことで、他のことはどうでも良い。ウィルスによる病気や他の国に旅行した人の個人的な関心などは。こうなると、これは一体どういうことなのかと自問する人もいるだろう。それに対する最初の答えは明快だ。各国家は自国民を自国に留めておきたいのだ。換言すると、国家はその国民を外国に留めておきたくないということになる。このことがどういうことかという疑問に答えるのは、米国がこのウィルスを「武漢ウィルス」と呼ぶことを主張して他国の同意を取り付けようとしたり、世界の政情がこのウィルスの呼び方に左右されたりしていることを考える際に極めて有益である。明らかに、G7諸国のリーダーがウィルスとの戦争や世界政治におけるそれ以外のことを話し合う際に、このような合意が意味することといえば中国に対する敵意についての合意以外の何物でもない。そして、もしそうでない場合は何も起こらないのだ。つまり、米国にとって非常に重要なことは、世界の大国全体が中国を共通の敵として定義することなのだ。ウィルスとの戦争を戦時のような言葉で宣言することで、全国家は突然、短期間のうちに別の形式の国家間協力を打ち出した。米国だけでなく、その他の国家も、このウィルス戦争との関連において米国が受けた損害について中国を非難し、このウィルスを「武漢ウィルス」と呼んだ。そして、この名前とともに、米国は欧州各国も攻撃した。米国の言い分では、欧州諸国がこの中国からの敵を欧州経由で米国にこっそりと持ち込んだということである。欧州の場合、これはいかに国家が敵意を分類するかということを示している。中国はそれに対して反論し、その解釈をウェブ上の狂気じみた人によってではなく、政府の報道官によって世界に伝えた。中国の言い分は、中国にこのウィルスを仕掛けたのは米国だ、ということである。欧州諸国、特にこれまでの歴史上においてロシアの敵として訓練してきたドイツは、このウィルスを利用してこれと同様の敵意の溢れる振る舞いに忙しい。ロシアは 、欧州各国がイタリアに対して行わなかった援助物資の供給を行い、欧州連合の連帯を貶めることでそれに対して応酬した。 米国がキューバからの支援の打診を断っている一方で、中国人やロシア人が、こうしておおっぴらに戦術を仕掛けてイタリアに救助物資を送っているのは、こうしたことからである。このように、ウィルスは世界を席巻し人類を攻撃している。この人類は国家からなる世界に生きており、ウィルスとの戦争はその戦争によって焚きつけられた国家の間における敵意の新たな場所となっている。政治とメディアにおける議論がこのウィルスに占領され、そこではウィルスとの戦争は何よりも国民の健康についてであるかのように描写されているが、このウィルスとの戦争が本当に意味しているものは何か、戦争、犠牲者、そして共に立ち向かおうなどというような大げさな戦時のような論調は実際には何のためなのか、という点を見逃すべきではない。各国内における、国民に対する国家統治の実施という政治プログラムは(ブログ2、3、4参照)、ウィルスとの戦争とその経済的成果から現われ、国家が他国と相対する時のために国内の統治力を強化することを目的としている。とりわけ、このことは、このウィルス以前に全経済分野にわたって互いに制裁を課し、現在そして未来において世界でどの国が強い発言権を持つのかを争うために相手国の経済を席巻してきた他ならぬ経済戦争で互いに戦ってきた国家にも当てはまる。このウィルスが広まるずっと前に、この国家からなる世界はすでに経済戦争という戦時だったのだ。自分たちの健康問題にとらわれて国民はこのことを忘れてしまったかもしれないが、国内および多くの国家からなる世界において誰に発言権があるのかという質問にのみ関心がある政治家たちはこのことを忘れてはいない。 このウィルスとの戦争でこうした国家全てが何を行っているのかを見れば、世界の国家が同じことをしているのがここでもわかるだろう。最優先事項は、自国経済に史上類を見ない額のクレジットを供給することである。このことに関する合意や交渉は、(各国間で)通常ならば行われるのであるが、この場合全く行われない。それぞれの国が決定するだけで、交渉などはないのである。国家間での合意なく国内経済に十分なクレジットを供給するということは、危険なことである。なぜなら、そうすることにより、すでに存在する制裁を伴った苛烈な経済戦争が、ますます激しくなるからである。これまでこれらの国が取り付けてきたこの種の合意においては、実際には、国内経済を強化するために自国が発行するクレジットが他国の国家予算および経済に対してどれほどの経済的損失を与えるかという点に注意を払ってきた。そのため、少なくとも他国の経済全体または産業全体を破壊しないような方法で、国家間でクレジット発行に関する政策について交渉してきたのだ。これは、米国が中国との交渉において行ってきたことであり、米欧間の交渉についても同様である。他国経済に対して自国経済を強化するために行われるクレジット発行政策が今後予告や交渉さえもないばかりか、過去に前例のない規模で行われるということは、その膨大なクレジットが巨大な火種を抱えていることを意味する。各国の財務大臣は、先週自国経済のための巨額な小切手を手にカメラに向かって満面の笑みを見せていたが、この笑みはとりわけ海外の同僚である財務大臣に向けてのものだった。そこには次のようなメッセージがある。「世界の国家よ、これを見たまえ。我が国は将来我々の間で起こる、経済のどの部分およびどの国の経済が価値のないものになるのかという問題に対して十分に準備はできている」。このことが何を意味し、どのようなことがここで伝達されているのか、誰もが想像できるだろう。ほどなく、ウィルスについての話題は終わるだろう。これは、物事がこれからどのように続いていくのか、というこれまで多く議論されてきた疑問に対する返答である。全員が実行してきた戒厳令とそれに関連する行動は、これまでのところ成功裡に完結したと言って差し支えはなかろう。政治エリートは全てを管理下に置き、広範囲にわたってそれに反対するものの形跡も見当たらない。ビジネス界は政治家が言わんとしていることを理解し、他国と競争するために過酷な条件を自らに課している。労働組合は国のために何をしなければならないのかを知っており、給与を断念している。そして、国民たちは、不平を言いながらもそれに従っているのだ。このような時期に自国民が外国にいることを国家が好まず、自国民が海外渡航することを禁じ、海外にいる者を連れ戻すのはなぜか、ということについてようやくここで説明がつくだろう。国家同士はお互いをよくわかっている。なぜなら、国家は自身についてわかっているため他国の動向も予測できるのだ。例えば、他国が嫌がることでその国にプレッシャーをかけることができるのもそのためである。そう考えると、自国民が海外の領土にいるということは、政治的な悪夢なのである。なぜなら、海外の領土にいる自国民はその領土を所有する国にとって自国に対する脅迫の手段になりうるということは政治家であればすぐに分かることだからである。だから、全員が自国に戻らなければならないのだ。ウィルスとの戦争においては、害のない観光客一人一人が、政治家の目には敵国の手に渡った民間人の兵士のように映るということは、読者諸君もすでにわかっているだろう。全員帰国については問答無用であり、これら一連の動きは真の国家行動として行われる。各国の外務大臣が登場し、自国民と海外諸国に対して報道を通じて、これは健康に関する問題ではなく、国家間における国家の問題なのだ、と発表するのである。(Translated from English to Japanese by Kazumi Okamoto)

  • コロナウィルス 4:ウィルスとの戦争で反目しつつ共に戦う国家と国民

    救済を受け取る人に対して力づくで救済策を実施するということは、国家だけができることである。そして、国家が普段よりもかなり異なる方法で多くのことを実際に行うのが、この国家戦争プログラムであるが、ほぼ全てのことはいつもと同じようである。 民主主義国家と独裁国家の線引きをする、と普段言われている基本的な公民権が停止されるのに、せいぜい2、3時間しかかからなかった。ここから先は、公民権はなし。独裁主義にはない国民の権利は、国家の暴力から国民を守るために存在していたが、そのような暴力を行使するものは他にいないので、国民の持つ全ての権利の停止は、独裁主義を導入することなく行われた。何の法律を撤廃することもなく、むしろ国民に自由を寛大に保障したまさにその法律で国民の権利は停止されたのだ。国家だけが権力の行使をできるという政治的見解から国家は国民の自由を認め、国民の自由を認めることが国家にとって不適切だと思われる時には、その権力を最大限に発揮して国民の権利を停止するのだ。ちょうど今国家がそうしているように。 自由というものは現在、国家にとってはふさわしくない。なぜなら、自由を認めるということは、国民自身が、個々の人生設計に基づいて生活をする際に、彼らの健康を脅かすものをどのように扱うのが最適かということを国民自身が決めることになるからである。これは現在禁じられていることである。国民が自分にとっての優先事項を比較決定することは禁止事項であり、国民は何も決めることはできず、国家によって定められた優先事項と優先事項の条件のみが適用される。個人の利益や個人的な優先事項の取捨選択に対しては全く冷酷な態度で、即座にこれら優先事項は適用となる。そこには議論というものは全くなく、国家の優先事項は、国民に対して容赦なく罰則や痛みの伴う損失といった脅しで、力づくで実行に移される。政治はいつもこのように機能するものなのである。 国家の優先事項とは、社会全体を維持することであり、それは国家が優先すべきものとみなすものを機能させ続けるということである。優先すべきものとは、まず国家それ自身であり、その次に来るのが経済である。国民にとってこれは何を意味するかというと、彼らは働き続けなければならないということである。これは、経済が我々の必要なもの全てを我々に供給してくれるという虚偽の議論を表している。まず、経済が生み出したもの全てを当然、我々は必要としていない。ほとんどのものは経済が経済のために生み出したものであり、仮に経済が我々に本当に必要な食物を少なくとも生産したとすると、それは全員に供給されるはずである。もちろん、これは可能ではない。なぜなら、経済というものは良いビジネスを作るべきものだからである。換言すると、経済-食物を生産するものでもあるが-はそのビジネスのために生産活動を行うものであり、ビジネスにならなければ、我々も知っているように、経済は何も生産しないのである。我々全員がビジネスを創出する経済に依存しており、この社会において何も機能しなければ、食べ物すらも存在しない。そのため、政治の最優先事項はビジネスが持続的に機能するということになるのである。だから、人々は働き続ける。そして、人々を働かせるために、それ以外の国民の優先事項はすべて禁止されるのである。 そうして、国民の経済への依存が生活の基盤として確立され、さらに、国家権力によって国民個人が意思決定することを禁じられ、国家は、国家と経済の保護を優先させることを念頭にそれを優先事項として政策を実施するため、国民の生活とその健康への懸念として国民が扱われるのである。このような状態で生じる費用は少額ではなく、誰もがすでにその費用がいくらか知っている。経済に与えられた金額と経済が負うであろう損失に対する費用の全額を果たして誰が負担するのか、と問う者もすでにいるかもしれない。間違いなく、経済はそれを負担しないだろう。経済は機能し続けなければならないし、経済なしでは何も機能しないのだから。我々に伝えられているようにこの危機を切り抜けなければならないのは経済で、国民は健康のために、自由を犠牲にした上さらにこの危機が将来彼らにもたらす費用を負担しなければならないのである。経済の健康のために完璧な治療薬は何かということを国家の指導者達は知っている。それは無限の財政出動である。 この経済とは何か、と問うならば、経済は全てを従属させるものである。国家は、独占的に使用できる権力を用いて、経済がその役割を果たすようにしているのである。この経済とは、つまり、工場や店舗、病院に至るまで全てのものを所有する、世界の人口の0.1%の人々のことで、彼らの所有する全てのもの、全ての人を使って、彼らの資本を際限なく増やすものである。この0.1%の人々の富がどんどん増え続けるように、それ以外の人々は働き続け、その資本の山が大きくなった時だけ、そこから僅かな取り分を与えられるのである。このように、人々は経済に完全に依存しなければならず、全ての経済活動は、経済が産出した有益なものによって評価されるのではなく、さらに大きな資本をもたらすかどうかによって評価される。この馬鹿げた経済のために、世界の国家の国民はこの経済に奉仕させられているのである。 国家が上記のような方法で全てをお膳立てし、何が起ころうとも平時でも現在のような例外的な状況においても国民の支配者であり、支配者であり続け、国民を支配下に置いてどのような状況でも対応出来る法律を用意するのである。どういうことかといえば、国家にとって都合の良い時にはその国民に自由を認めるが、同時にその自由は今日から明日という短時間の間に取り消されることもあるということである。 自由やその他の人々の権利が認められているというのは大きな罠である。確かにそのような権利は認められてはいるが、こうした自由や権利を保障するものは同時にこの自由を行使しようとするときに人々に脅威を与える存在でもあるのだ。だから、国家はそうした権利だけを与えているのである。全てのこうした自由は、全く自明のものではなく、政治権力の優先順位に基づいた政治権力による計算され尽くした寛大さなのである。そして、政治権力にとって認められた自由が何を意味するかという判断基準に応じて自由や権利は認められ、現在のように政治的にふさわしくないとなると、それらの権利は何の騒ぎを起こすこともなく取り消されるのだ。 権利として認められ、つい最近国家が取り消したものは、法的にどうでも良いものではない。これは、生活の基本的な事柄に関することである。移動の自由や言論の自由とは、人が考え、行動すること、さらに正確に言えば人が他者に自分の考えを示すことを決定づけるものである。あなたがひとりで思考することは多いかもしれないが、その思考を他者に話すことは全ての社会生活における関係において基本的な行動である。つまり、あなたが何を考えているかを他者に話すことを許可されているということは、単なる取るに足らないことではない。さらに、移動の自由について言えば、何か行動を起こすために行こうと思っている場所に出向くことができなければ、あなたがやりたいと思っていることも実現できないということになる。 こうしたことから、移動の自由を禁止することはあなたがやりたいと思っていることを禁止するということに他ならない。そして、移動の自由が制限されているにもかかわらず、仕事に行くことは可能であるという事実は、国家にとって何が大事で何が大事でないかということを物語っている。 このような与えられた自由に加えて忘れてはならないことは、その他の日常生活にまつわる物事にはあらゆる法律が存在するということである。例外なくすべてのことに対してこれは当てはまり、国家が何を認め、何を認めないかを規定している法律によって全てが規制されているのだ。 現在、健康政策実行の目的でそのような自由全てが中止されているという事実は、 今回、健康のために取り消された自由は、病気以外のことがきっかけであれば、さらに乱暴な形で取り消され強制される可能性もあるということも我々に気付かせるものである。さらに大変な状況に施行される法律は、すでにすべて準備されているということに気付いておくべきである。このような法律を施行する者たちは、すでに今後起こりうる事態を予想しており、そのような状況においては自由が認められないということもすでに知っている。そして、そのような状況を十分に予測しているため、法律にもそのことをすでに組み込み、今回のようにそれが必要となったときにすぐに引き出しから取り出し、今回のウィルスの場合のようにすぐにすべての自由を取り消すのだ。 極めて簡単に、法的な問題もなく、基本的な権利は一国の制令により、そして他国の議会における決定により廃止された。どのような場合であれ、中国を初めとする独裁制による政治は、西洋における民主政治と全く同じようなことを行っており、権力を握っている一握りの政治家は世界中のあちこちで全く同じことを行っている。過大評価された移動の自由を国民に与えるこれらの高貴な権利は、まるで照明のスィッチを切るように取り消されるのだ。 なぜなら、政治家にとって、国民が何をすべきかを指示するために政治家を政界に送り込んだ国民を信用することほど馬鹿げたことはないからである。国民の健康だけが重要な問題である時でさえ、選挙の際に信用して選んだ政治家を信用するということは、その政治家の観点を信用するということになり、病気にならないように何をすべきか、またすべきでないかということについてその政治家がいうことを受け入れることである。このような政治家にとって、政治家が言ったことを鵜呑みにして行うような国民を信用することほど馬鹿げたことはないのである。たとえ国民によって選ばれた政治家、つまり民主主義の思想により任命された民主的な政治家が、その国民の健康の面倒を見るとしても、世界中の政治家、さらに正確に言うとこの国家政策の世界からやってきた政治家にとっては、政治の意思は常に、命令や権力、罰則の脅威によりその国民に強要されるということは最も自明のことである。ウィルスとの戦争や健康のための闘いにおいて、国民はまるで国民自身が敵であるかのように扱われている。 そして、これもまたいつもと全く同じことなのである。政治権力の要望に応じてこれら全ての国民の権利が再び適用されることになる時やたった今まで禁じられてきたことが再び許されることになる時でさえも、政治と国民の関係はいつも全く同じなのである。まず、国民は何も言うべきではない、様々なことについて意見を持つことは許されているが(この点にも要注意)、国民に決定権は全くないのだ。政治とはこういうことである。政治は、全ての重要事項に関する決定権を独占しているだけでなく、国民が何と思おうとその決定事項を国民に強要する権力も有している。今回のようなウィルスとの戦争における決定事項はいつも政治により決められるのであり、国民によって決められるものではない。政治が国民に対して暴力の脅威を用いて決定を強要することは、政治においては通常のことである。普通の国民の生活にとって重要なすべてのこと決めるのと同様に、政治は何歳から学校に通い、働き、定年退職するかということも決める。このような決定事項に議論は必要ではなく、決定事項は強要されるものである。このウィルスとの戦争で国民に対して、「もしも」や「しかし」といった言葉を使うことなく、ただ暴力の脅威が示されているのと同じである。 ウィルスとの戦争における国民、つまり国家的な暴力の脅威を用いた政治による命令の受け手を政治が扱う様子は、極めて普通であり、ウィルスが存在しなくてもそれは同じだと言える。 大部分の人々にとって、この日常生活とはどういうことだろうか。学校では教師が決めたことを習うが、何を習うのかはどうでも良い。他の生徒よりも優秀であることが大事である。次に職業訓練。特に、良い仕事を見つけるにはどんなことをすれば良いか。そして、結婚。ここでは自分の好きな相手を選んでも良い。さあ、仕事を探そう。仕事がなければお金も手に入らない。お金がなければ何もできない。お金を手に入れるには仕事をしなければ。これが法律だ。それ以外のことは罰則を受ける。働け。毎日、1日中。1週間のうち5日。これを40年間。合間には休暇が与えられる。4年に1度は政治参加。日曜日には投票所に行くこと。そうして、65歳になれば定年退職。お金が十分にあれば好きなことをして過ごしても良い。このような日常生活を人々にもたらすことができるのは不思議なことではない。ウィルスとの戦争において国家がその国民を支援する手段と同様である。 したがって、このウィルスとの闘いにおいて、全てが通常通り進んでいる限り、あたかも国民がウィルスに十分苦しめられていないかのように、彼らが国家の命令に従わない場合は罰則を与えると脅かし、国家が国民に通常認めているすべての自由と権利を短期間で取り消すのは驚くようなことではない。そして、たとえ国民に対する権威を国家が強く主張したとしても、国民はそれに従うので、ウィルスとの戦争において国民に対して禁止事項を出しても、国家は国民の救世主とみなされるわけである。これもいつもと同じことである。 どのような場合であれ、戦争における敵がウィルスではなく他の国家である場合に何が起こるかということを国民はすでに理解している。5番目のブログはそれについて書いてみようと思う。 (Translated from English to Japanese by Kazumi Okamoto)

  • コロナウィルス 3:「ウィルスとの戦争」で国家が行っていること-いつものように、患者第1号は国家自身、患者第2号は経済

    政策が発表され、それを目にした時、ウィルスとの戦争を宣言し戦争を遂行することの意味や、政治家が国民のための指揮官であると同時に国民と敵対する指揮官として振る舞う理由がわかる。 このような政策を見れば、しても良い質問とそうでないものがある理由とその質問についてどう考えるべきかという点は、政治家が何を求め、なぜ国民が政治家の思惑通りに物事を判断すると政治を行う上で良いことなのかということを理解するのに有益である。そして 、国家が実際にその政策を行う段階になると、なぜ政治家は議論ではなく戒厳令という兵器から発せられた政策に依存するのかも明確になる。 そして、政策を見れば、特定の病気との闘いがなぜ、そしてどのように戦争へと変わっていくのか、この戦争がどんな戦法を取るのか、そしてこの病気との闘いにおいてなぜ政治家が将軍のように振舞うだけでなく、実際に将軍として行動するのか、理解するのに時間はかからない。 このような政策を見て、この思いやりのある指揮官の観点からすれば、誰が最も指揮官からの保護を必要としているかと我々自身自問してみると、 この質問に対する答えは、社会において、または政治的な基準により測った結果、国家にとって重要なものに対して国家はその保護のための支出をするということだとわかる。そうすると、最大のケアを最初に受けるのは国家自身であり、仕事により生計を立てている一般の国民は、国家にとって重荷以外の何物でもないという結論に至るだろう。 そのため、このウィルスから守られるべき犠牲者リストの最上位にあるのは、国家それ自身であり、この惨状から国民全員を助けるため、持っている全ての手段を総動員して国家は最初に保護されるべきなのである。財務大臣がポケットに手を伸ばし素早く取り出したお金で国家は突然全てに予算をつけることができ、債務やそれに付随する細々としたつまらないことを気にすることもない。しかし、我々は昨日までどうだったかということもまだ忘れてはいない。貧困者、病人、弱者、子供達、家族への予算はなかった。誰も救われるべきものとして考慮されていなかった。翻って、現在、国家は救われるべきなのだ。このことは国家の医療政策への予算も含まれる。誰がこの債務をいつ払うのかという点に関心は払われず-国家は間違いなく関心を払っていない-、そしてこれまでと同様、国家は過去の債務を返済するために新しい債務を作るのである。国家はそういうことができるが、それ以外の者はそんなことはできない。少なくとも、仕事で生計を立てている人間には無理である。そういう人たちにとって、クレジットの限度額には限界があるようである。 医療システムは、国家が気にかけねばならない事例である。なぜなら、すでに述べたとおり、医療システムはビジネスに成り下がり、予期していなかった全コロナ患者を目の前にして、取り扱うはずではなかったコロナ患者を治療しなければならず、その治療は儲けにもならず、しかし、コロナ以前と同様に医療システムはビジネスとして成立させなければならない、ということを意味するからである。この医療システムは、コロナ患者に苦しめられている。というのは、コロナ患者では何のビジネスにもならないからである。そのため、医療システムは救助されるべきなのである。医療システムというと何か親身になって面倒を見てくれるもののように聞こえるが、実際は、人々の健康状態を利用して大儲けする資本のことである。医療システムは、コロナ患者のような不適切な病気ではビジネスが成立しないので、国家がその分の支払いをしてくれるのである。ドイツの例を見てみると、現況ではキャンセルを余儀なくされている手術で普段はもうけているビジネスマンたちのために、80億ユーロがビジネス損失の補填として歳出される。財務大臣にとっては、病人のために新たな政策を立案することほど馬鹿げたことはないのである。結局、我々は社会主義やそれに類似するような体制下で生活しているのではないし、そうだとしたら投資家達は皆そんな所には寄りつきもしないだろう。国家の医療システムというものは次のように機能しているのである。通常どおり、病人を獲得する。しかし、その病人がかかっている病気は、多忙な医療システムが儲かるような正しい病気でなければならない。さもなければ、国家の医療システムは、ウィルスとの戦争における医療政策において懸念すべき事例になってしまう。ここでもやはり、病気に関連する産業に国費を投じるのである。これもまた規定路線である。 そうして、国家が保護された後にもっとも脆弱と思われる犠牲者リストの最上位に来るのが「我々の経済」である。経済は医療システムに投資しないどころか、すでに国家から80億ユーロのサービスを提供されている。我々全員が「経済」に依存しているので、「経済」が引き続き機能することが不可欠なのである。まず、これまでどおりビジネスが継続するように際限なしに十分な国費を汲み出す。つまり、多くを所有する人々がその資本を経済に投資できるようにするということである。そして、それは製造と販売の継続を意味する。製造、販売が行われなければ投資家にとっては何の意味もなく、後には何も残らず誰も何も手に入れることはない。資本主義下ではこれが常識である。投資家と呼ばれる人々が、「我々に」その資本を投資する際に案じる心配事や疑念は、これまで国家が見たこともないほど気前の良いローンによって解消されるのである。ここでもまた、これまで同様の規定路線。 一般人は、日々仕事に行き、ウィルス感染していようがいまいが仕事をし続ける。なぜなら、労働者無しでは何も機能せず経済が立ちいかなくなるからである。経済が機能しているということは、すなわち、この経済体系では最後には毎度のごとく投資家のビジネスが登場するということである。もしそうでなければ、この経済では何も機能しないし、人々が手に入れるものも何もないのである。だからこそ、経済は無償で融資を受けるだけではなく、様々な理由で物事がうまくいかず、障害が発生した時に、あらゆる問題があるにもかかわらず、従業員に渡すお金があるので、従業員への支払いを続けることができ、投資家の懐を直撃しないのである。しかし、このお金を直接国家が労働者へ支払うのは問題外である。なぜなら、そんなことをすれば労働者たちは仕事に行かなくなるからだ。このような場合は巧妙さが必要とされるが、これは政治家たちが非常に得意とすることである。そして、労働組合も政治家と同様にこの巧妙さを身につけている。ドイツでは、国内最大の労働組合による最近の団体交渉がほとんど気づかれないうちに0%の賃金上昇率で妥結された。どういうことかというと、組合の理論として、コロナ危機に直面するドイツ経済を保護しなければならない、そのためには、これまで同様労働者は身を粉にして働きわずかな稼ぎを得るのが最善の方法だ、ということである。これもいつもと同じ。経済はそういうことを好感するし、労働組合はそれをよく知っている。当然、労働組合は、労働者がそのためにどのような問題に直面するかもわかっているのだが、経済の利益に貢献しなければ、資本主義では何も機能せず、ウィルスとの戦争においてはなおさらのことである。そのため、前述した労働組合はそのような方法をとってウィルスとの戦争に貢献したということになる。ここで述べたこと全てはとりたてて特別なことではない。 こうして、患者第1号の国家と第2号の経済は救済された後、患者第1号の国家がメディアにすでに1日24時間登場しているのと同様に、経済も堂々とその姿を現わすのである。コロナ治療薬のビジネスの兆しが見えてきた現在、ウィルス治療に投資が行われている。使える手段全てを使って個々の声明を発表し、国民全員が一刻も早く治療薬を入手できるように国家と経済は最善を尽くしているのである。誰もが知っている慈善家のビル・ゲイツも、誰よりも早く、COVID-19の治療薬に投資している。国民は経済を、特に個人的には神により派遣されたパトロンである資本家を支援するだろう。実際、これもいつものことである。我々に仕事をくれる資本家への感謝というのは常にあるが、資本家たちは持っている限りの資本をいつも「我々」のためだけに使い、我々が仕事場やそれ以外のところでウィルスに感染した場合は、我々に治療薬を提供してくれるのも資本家たちなのである。これも聞き覚えのあることではないだろうか。 (Translated from English to Japanese by Kazumi Okamoto)

  • コロナウィルス 2 ウィルスとの戦争における国家と国民 -実際には全て普段と変わらず

    一見したところ、これまでと同じことは何もないようにみえる。しかし、このウィルスとの戦争において何が起こっているか子細に見てみると、基本的にはこれまでと変わったところはないことがわかる。 このウィルスとの戦争をどう捉えるべきか-これまでと同様、国家は必要な時に助けを差し伸べる存在 この戦争は、国政のリーダーが事態の全体像をどのように捉えているか、ということをメディアが報じることに端を発している。 いつものごとく、今や誰もが知っているように、我々が政治家たちと同じ視点で事態を捉えるべきだという前提で、政治家たちはメディアを使ってウィルスに関する全てのこと、とりわけウィルスとの戦争に関する政綱はどのようなものかということを提示するのだ。 その方法については以下のとおり。 正しい質問をすることはとても重要である。尋ねてはならない質問というものがあり、そういう質問は初めから排除される。まず、最初の質問。なぜこのウィルスに関するつまらない様々なことが存在するのか。 この質問は尋ねてはならないものである。尋ねてしまえば、それは政治家、国家の保健局、そして産業界に対峙することになるだろう。そのいずれもが、前回のウィルス(訳者注:SARSウィルス)が終息した際に十分に利益が出る治療薬を創薬することができなかった。そのウィルスの終息と同時に儲けになるビジネスの保証もなくなり、そのため創薬途上だった研究者たちは家に送り返されてしまったのである。その一方では、これも特別なことでもなんでもなく、ごく普通のことであるが、罹患した国民の数のグラフ曲線が上昇傾向になれば、製薬会社の株価も上昇する。健康というものはひとつのビジネスで、国家が全力を傾注するのだから、良いビジネスと言えるだろう。 なぜ税収が潤沢にあり際限のない資金力のある国家-少なくとも世界の上位国-が緊急事態に十分対応できる賢明な医療システムに国費をつぎ込まないのか、ということも尋ねてはならない質問である。この質問も事態の初めの時点で排除される。なぜなら、この質問に対する回答は政治家と経済には都合の悪いものだからである。世界中の医療システム全体は、わずかな投資で大きな儲けが出るビジネスになるように作られている。費用削減のため、および医療システム全体を利益創出の手段にするために、政治家は医療施設を次々と閉鎖してきた。利益を生み出すべく存在する製薬会社においては抗生物質を製造しなくなり、利益の少ないあらゆる種類の手術を行わなくなった病院は閉鎖に追い込まれた。製薬会社と民営化した病院ではこうしたことが行われており、医師に至っては製薬会社と病院の両方からその利益配当をもらっている者もいる。違った設定であればある種のマフィアと呼ばれるところであるが、この慈善的なビジネスマンのネットワークは「我々の医療システム」と呼ばれ、我々全員が現在関与しているこのシステムを我々自身が救わなければならないのである。 現在の医療システムにはこのような背景があり、上記の目的を果たさず普段の症例数を超えたウィルス治療のみに医療システムが利用される時、全ての患者の声よりも多くの不満が噴出するのである。このような状況下では医療システムビジネスは機能しないため、全く儲けにならない治療を要する多くの患者から医療システムは保護されなければならないのである。こうなると、医療システムにはとりわけ国家からの保護が必要となる。どういうことかは誰もが知っていると思うが、次の点を見てみよう。 このウィルスについてどのようにしてこんなくだらないことが起こったのか、治療薬のない状態と今回の事態に準備ができていなかった医療システム、これらのことを考えた上で頭に浮かぶ疑問などを考えてみると、これら全ては政治と経済に関係があることがわかる。政治と経済は全てを決定するのに、その全てとは関わりを持ちたくない。物事がうまくいかなくなると、上記のような疑問や思考は禁止されるのである。政治は、非常時に登場した助っ人のように、そして何も誰も止められない戦時下のリーダーが必要な軍備をしてその臣民を戦いに導くかのように、現在その存在を示しているのである。この印象はあてにならないかもしれないが、一部の政治家は、この布告された戦争も彼らが国家のリーダーとして登場する機会だと信じて疑わないのである。 自身を助っ人として、あるいは司令官として、メルケル、トランプとしてその存在を示すのか、様々な解釈が可能であろう。 戦時の偉大なリーダーとして振舞うのも、医療政策と経済的利益のある医療システムの保護により国民をひどい目に遭わせた国家が国民の偉大な助っ人として振舞うのも、実際は至極普通のことである。政治家が国民に問題を提示する際にはいつもこのような手法を使っているのだから。公的な権威にある者はいつでも非常時の助っ人のように振る舞うが、その非常時の問題を引き起こしたのは大抵いつも彼ら自身以外の何者でもない。物事の全てを決定する反面、必要な時に責任を取りたくないというのは彼ら以外に誰がいるだろうか。時に、ビジネスと政治の役割分担がうまく機能する場合がある。失業者の例を見てみよう。失業者は、経済に関する全ての法令を取りまとめた政治によってのみその存在が生み出される。仕事の成果が上がらなければクビにするのは何の問題もなく、そのあとは失業手当を支給すれば良いのである。ところで、失業手当というものは、納税者である国民が仕事についている限り自分自身のために支払っているものであるが、国家はまるでかわいそうな失業者を救うために国家の財源から払っているかのように振舞っているのである。どこの国でも全てはこんな風に行われている。同様に、国家の医療政策と治療薬のない現状でのウィルスとの「戦争」全体に巻き込まれた病人であれ健康な人であれ全ての人に対して、このウィルスに感染した病人の治療は国家からの救いの手のように描かれている。 独裁的なタイプとして自分自身を売り込むこともまた政治家の間では相手を出し抜くための嫌味な策略的自己描写ではなく、リーダーの資質のある政治家として他の政治家と区別するものである。そして、これは今に始まったことではなく、まさにそのような態度こそがこの職業の本質に合致するものなのである。 (Translated from English to Japanese by Kazumi Okamoto)

  • コロナウ イ ル ス 1: なぜ国家はこれをウィルスとの戦争だと喧伝し、日常生活を妨げるのか

    全ては現実に起こっていることなのか、それとも我々はSF小説の世界に入り込んでしまったのか。数日のうちに全てがこれまでと違うものになり、我々の生活も昨日と今日では全く違う。あちこちで起こっているというだけでなく、少しずつ世界中で、我々の生活の「電源」が落とされている。なぜこんなことが起こるのか。1種類のウィルスが病と死で人類を脅かしている。双眼鏡で見てもわからないような微小生物が人間の体にこっそり忍び込み、健康な体を傷つけたり、時には死に至らしめたりしているのだ。 その一方で、なぜこれがSF小説というべきなのか。日常でこんなことが起こるのはごく普通のことで、我々の日常生活の一部じゃないか。毎年同じような時期にそのような微小生物であるウィルスが人間の体に知らぬ間に入り込むことで、人類を攻撃し、相当数の人が病気になったり亡くなったりする。 優秀な科学者たちはいつも前もってこのウィルスの感染者数と死亡者数を予測することができるし、シーズンの終わりにはさらに正確な数を記録してリスト化している。単純なことだ。 忘れてはいけないのは、これはいわば決まりきった仕事で、感染者や死亡者の数は年中カウントされている。そのような疾病は、人類そして多くの科学者に長年知られていて研究が行われているが、完治する方法は見つけられておらず、そのためそういった疾病はこの世からなくならない。 国民国家(以下、国家)の疾病に関する懸念に関連して、ウィルスによるものと同様に1分単位での餓死者数の記録があることも覚えておくべきだろう。正確な記録をしてそれで終わり。このことについてはいくらか道徳的な懸念が表されることもあるが、それ以外については餓死者数について考える理由などない。これも我々の生活の一部で、深く考える理由は何もない。 では、COVID-19と呼ばれるウィルスについてはどうだろう。なぜ、このウィルスは 今日から明日という短い期間で世界中の人々の生活全体を停止させることができるのだろうか。日常生活における義務的な部分は全て閉鎖し、幼稚園、学校、大学という、これまで行かなければならなかった場所も今は行かなくても良く、行くことを禁止されている。商店、バー、居酒屋、映画館、サッカー、全部禁止。余暇として楽しんでいたことも全て禁じられ、これまで義務としてしなければならなかったことまで禁止。ただし、ひとつ例外があり、働くことは禁じられていない。学校でそうなる可能性があるように、仕事場でこのウィルスに感染するかもしれないが、健康であれば仕事には行かなくてはならない。 なぜこういうことが起こっているのか。答えは簡単。我々を病気にしたり死に至らしめたりするのは同じでも他の疾病と違うのは、このウィルスには治療薬が存在しない。それはなぜか。ここで問題として捉える点は、他の疾病に罹り亡くなる人がいても同時にそこには治療薬があり、毎年の罹患者や死亡者の数は正確に記録されていることである。 そして、先に触れたとおり、毎分の餓死者数に対して何ができるかという問いについては真剣に議論されていない、というのが現実なのだ。 他の疾病については全く問題視されておらず、誰も気にも留めていない。疾病に罹患する人やそれで死亡する人はいるが、それに対する治療薬はある。治療薬で全員が治癒するというわけではないが、どれほどの人数が罹患するか、また、いつ(何歳で)罹患し死亡するのかということを多かれ少なかれコントロールすることは治療薬のおかげで可能なのである。 餓死者について考えてみよう。餓死に対する治療薬は至極単純なものである。食べ物を彼らに提供すれば良いだけだ。餓死していく人たちを誰も気に留めない。なぜなら、彼らは何の役にも立たない人だからだ。これが現実なのだ。利用可能な人間は食べ物を手に入れることができる。利用可能とは仕事を見つけることで、そういった仕事をビジネスにする人がいる場合のみ仕事は見つかる。誰もがこのことを知っているし、世界中のどこに行ってもそれは同じ。誰かを雇用することによりビジネスが成り立つのであれば、そこには仕事がある。そういうビジネスがなければ、仕事もない。仕事がないところにはお金はない。だから、食べるものもない。こうして世界は機能しているのだ。飢餓についてはたったこれだけのこと。 インフルエンザや癌、治療薬のある疾病で亡くなる人について考えると、治療薬があるからといって罹患者や死亡者がいなくなるというわけではない。むしろ、毎年の罹患者や死亡者はビジネスとして扱われており、罹患者や死亡者がいる事実は治療薬があるということで深刻な問題として扱われていないのである。癌による死亡者は大部分が高齢者であるが、彼らも利用価値のない人々ということになる。この点においては餓死者と同様である。インフルエンザのケースでは、治療のおかげで罹患者及び死亡者の数はコントロールされており、毎年その数は計算可能であることから、インフルエンザを完全に撲滅することは目標にはならない。 これが、この新しく出現したウィルス、COVID-19に関する問題の全貌なのである。問題となっているのは罹患者や死亡者ではない。罹患者や死亡者なら他の疾病についても存在している。問題は、我々の日常生活について発言権があり『今日から全て禁止だ』という人々なのだ。真の問題は、このウィルスには治療薬がなく、治療薬がないということは医療システムに関して決定権を持つ政治エリートが他の疾病については存在している、罹患者の数をコントロールする手段を持っていないということだ。つまり、政治家にとっては、国民の健康をコントロールできないということが最も深刻な問題なのである。 治療薬が国民の健康をコントロールする重要な手段なのであれば、なぜそのような治療薬が現存しないのか、ということを考えれば、「このウィルスに対する治療薬がないという事実に対して、世界中の政治家たちはこの状態を戦争状態とみなすだけでなく、実際に戦争状態であるかのように振舞っているのはなぜなのか」という疑問に対してすでに半分ほどは答えが見えてくるはずである。 さて、なぜ治療薬がないのか。この新型のウィルスに対する治療薬ができているはずだった、ということは誰もが知っている。SARSと呼ばれるウィルスに数年前に我々が直面した後、科学者たちはSARSウィルスを利用して集約的な研究を行い、治療方法を確立することを強く進言した。これは、そのようなウィルスが極めて類似した形態や性質を持ちうるということを前提に、将来発現するウィルスに備えるためである。そのような研究を行い、治療薬を創薬するには数百万ユーロが必要だったが、株式市場や国家が普段動かしている多額の金額に比べれば、到底莫大な費用だとは言えない。だが、その後何が実際に起こったか。誰もが知っているように、魅力的な利益を連れて戻ってくることを確約されたところにしか財産は投資されることはない。そのため、資本主義制度においてどこでもそれが当たり前なのと同様に、前述の研究は現実に行われなかった。魅力あるビジネスを約束するわけでもない研究には個人資本からも国家からも投資は受けられなかったのだ。なぜなら、SARSウィルスは突然終息し、その上SARSに翻弄されたのは結局アジア諸国だけでヨーロッパには関係がなかったからだ。SARSウィルスの研究は確約されたビジネスとみなされなかったため、治療薬の創薬準備段階にあった研究は中止となった。今回、新型ウィルスに治療薬がないのはこのような理由からである。 政治家が日常の全てをコントロールできるようにし、この新型のウィルスが引き起こした損害のコントロールを可能にする治療薬がなぜ存在しないのか、ということの答えがわかれば、このウィルスがどのようなもので、それによっていつ、誰に、そしてどれほどの人数にどのような害を及ぼすのか、ということをコントロールできない世界中の国家が、今の状態を戦時だと解釈するだけでなくまるで戦時であるかのように振舞うのはなぜか、ほぼ明白になってきている。 国家にとって、その国民のあり方に対して影響力を発揮出来る手段を持たず、しかも、どんな人がそしてどれほどの人数が罹患するかを決めるのがウィルスだという状況は、最悪のシナリオなのである。もはや国家が国民やその生活一般、および特に国民の健康について発言権を持てないなど、最悪以外の何物でもない。なぜなら、国家というものはその国民と国に対する権威から成り立っているもので、そのような政治権力にとってこのウィルスが疑問を投げかけているのは、このようなことがなければ疑問視されることのない統治権だからである。統治権とは国家の全てであり、支配する国民に起こることに統治権のない国家は、その存在自体を疑問視される、ということになる。そのため、国家は現在を戦時と捉え、まるでこのウィルスが他の国家で戦力を装備してこの統治権を攻撃しているかのように振舞っているのだ。国家にとって、国家に従わないものはたとえそれがウィルスであっても、それに相対するということは戦争と同じなのである。なぜなら、全てをコントロールするということが国家を国家たらしめることであり、国家とは絶対的な統治権を持った政治的権力であり、何者、何事によっても疑問視されたことのないものだからである。 このウィルスに対する治療薬がないということで、国民に対する権威が保てなくなるというこの問題は、国家にとっては戦時であり、そのためウィルスに対する戦争を宣言し、国家の医療システムと国民に対する統治権があることを改めて確認するための政策が導入されるのである。 国家としての統治権を再確認するというこの目的は何者-それがウィルスであろうと-からも疑問視されず、政治行動を形成し、その政治行動というものは実際に起こる戦争のための政策からなるものである。戦争のために国家が有する政治的権力により実行される政策には、国家が有するあらゆる手段で、普段なら良い国民の振る舞いとして従っている日常生活におけるルールを中断したり、健康のための行動を強いることも含まれる。 統治権を再確認するために国家が行っていること、とられている政策および国家や国民について上記のことが示唆することは次回のブログ2のトピックとする。権威を取り戻すために国家がこの「戦争」をどのように実行しているのか、そしてそれを外交関係とどのように結びつけているのかはブログ3のトピックとする。 実際に、実に多くのおかしな事が起こっている。例えば、ウィルスと戦うために、医療システムは過剰な数の病人から守られなければならず、健康な人間は絶対に病気に罹患しないようにしなければならない。ウィルスは国家間の国境を知らず、ウィルスの存在が広く知られていなかった時にも国境は存在していたが、ヨーロッパの例を見ればよく分かるように、今や国境はかつてないほどに 再び明確にされている。その上、すべての国家が同じように 自国民の健康を重視するあまり、外国籍の市民を国外退去にし、国の医療システムが過剰に利用されないようにしている。それだけではなくさらに多くのおかしな事が起こっているのだ。 (Translated from English to Japanese by Kazumi Okamoto)